よまいごと

古い戸籍から

古い戸籍から

父・榮が亡くなってもう10年以上が経つ。それにも関わらず、今さら相続関連の手続きが必要だという連絡を受け、「改製原戸籍」というものを入手した。
古い戸籍。以前よく見た縦書きの手書きで、びっしりといろいろなことが書いてある。
「養母・清水きよ。」
これは、父が養子であったことを示している。つまり私自身も、祖母・清水きよとの間に血縁はなく、清水家の血を受け継ぐ者ではないということになる。このことは、祖母が亡くなった時に父母から知らされたので既に知っていたことだ。もっとも初めて聞いた時は、それまで本当の祖母だと思っていただけに相当驚いたことを思い出す。驚いたがその時まさに祖母は亡くなったところだったから、だからなにかをどうするということもなく、ただ狐につままれたような思いに包まれていただけだった。

「父・中川榮太郎。」
え?...父のもとの姓が「中川」? 確か、祖母が養母だということを聞いてしばらくした頃に尋ねた時には「佐々木」だと言っていたように記憶しているが...? 「中川」という姓は完全に初耳だ。そうか、本当は「中川」と言ったのか...。自分の中に流れる血のDNAの名前がようやく判明した。
「母・三浦幸子。」
これも完全に初めて知った。父から父の本当の母についての話を聞いたことはない。なぜなら、父は祖母が養母だったということ自体も、就職するために自ら謄本を取った時に初めて知ったと言っていたからだ。つまり、父に実の父母に関する記憶はないというようなことを言っていたように記憶している。だからそれ以上突っ込んでは尋ねなかった。
しかし養子縁組がなされた日付を見て、それにも疑問を感じる。
「昭和17年10月3日。」
つまり、昭和11年生まれの父は既に6歳になっていたことになる。それであれば少なくとも普通は、養子縁組がなされたことも、それ以前のことも、なんとなくでも覚えていそうなものだと思える。覚えていないと言ったのが嘘だったのか、それとも本当に覚えていないのか...事実は分からない。
さらに不思議なのが、養子縁組に際してのこの記述。
「清水きよの養子となる縁組。同人及び縁組承諾者中川榮太郎、同人妻春子届出。」
中川榮太郎の妻の名前が違う。父の実母は「幸子」。しかし養子縁組時には「春子」と記載されている。これはどういうことだろう。
考えられるのは、父の出生後、この養子縁組までの間に、幸子と離婚したか、幸子が早世したかということ。これは今回取得した戸籍では知り得ない。場合によっては、中川榮太郎と幸子の間に婚姻関係がなかった可能性も考えられる。内縁だったのか、時代的には妾であった可能性も捨てきれない。
ただそれを考えている間に思ったのは、父・榮太郎が、生まれてきた子に「榮」と名付けたということは、少なくとも決して望まない子ではなかっただろうということ。恐らく榮太郎は父の誕生を喜び、自分の名前から一文字を取り、その本流であるかのような付け方をしたのではないかと思える。「榮なんとか」ではない。ただ一文字すばり「榮」である。それは最初の子供である可能性が強いと思えるし、自分の後継者としての位置づけも感じられる。つまり、榮太郎にとって幸子の存在も、決していい加減なものではなかっただろうと思える。
しかしこの記述がさらに謎を深める。
「中川宇三郎戸籍より入籍。」
祖母・清水きよの籍に入った際、その元籍はなぜか中川榮太郎のそれではなく、同じ中川姓ながら「宇三郎」という人の戸籍だったというのだ。
これはどういうことだろう。父は実父の籍に入れられていなかった?...生まれたものの自分の籍に入れないってどういうこと? 残念ながら榮太郎とこの宇三郎の関係性が分からないのでなんとも言えないが、考えられるとすれば、宇三郎は榮太郎の父親で、榮太郎はずっと宇三郎の籍の中にいたということかもしれない。今では結婚すれば新しい自分の籍を立ち上げることになるが、ひょっとしたら当時はそうしなくてもよかったのかもしれない。だから、父だけでなく榮太郎ごと宇三郎の籍の中にいたのではないかという...本当にそんなことができるのかどうかはまったく謎だが...。場合によっては父が生まれた時点で榮太郎が未成年だったという可能性もあるかもしれない。
逆に、本当にただ、父を自分の籍に入れなかったのだとすれば、そこにはなにかネガティブな事情を想像してしまう。父の実母の名前と榮太郎の妻の名前が違うことも合わせて考えると、春子との婚姻に際し、前妻の色を廃したとか、そもそも幸子はやはり正妻ではなかったとか...そんなことも可能性としてなくはない。
戦争の影響もあるかもしれない。昭和17年といえば、ミッドウェイ海戦のあった年。それまで常勝機運を続けていた日本が大きな転換点を迎えた年だと言える。川崎は、4月のドゥーリットル中佐を中心とする初の日本空襲の際に被害を受けている。しかし国民レベルではまだまだ、後に濃厚になる敗色の気配は感じていなかっただろう。つまり、祖母が話してくれた、空襲の悲惨さの話はきっとまだもう少し後のことなのではないかと推測する...が、場合によってはこの最初の空襲でいきなり焼け出されたのかも知れないとも思えるが...。
後に、祖母と父は川崎を捨て、栃木に疎開してくることになるのだが、その正確な時期はこの戸籍からは分からない。なぜなら祖母は川崎の本籍を長らく動かさず、父が栃木に本籍を置いたのは父が結婚した時だからだ。つまり、この養子縁組と戦争との因果関係も現時点ではまだ謎だということになる。
まだ材料は全然足りてないなぁ...。
いったいそもそも、この中川家というのはどういう家だったのだろう。検索してみるが名前からでは有効な情報は得られない。そこで、父の出生地として記載されている住所の情報を加えてみる。
「神奈川県川崎市堀之内。」
これがまた面白い場所のようだ。なんと江戸時代から続く歓楽街で、かつては青線地帯でもあり、今でもソープランド街だとのこと。父が生まれたのはこんなところ。...怪しい(笑)。この中川榮太郎という人がそれに関係していたかどうかはもちろん分からない。しかしこのベースグランドはいろいろな妄想をかき立てる。
そもそも祖母が川崎でどのような仕事をしていたのかもよく分かっていない。なぜなら本人がそれをあまり語りたがらなかったからだ。祖母の語る思い出話の中には、近所の子どもたちにかき氷を振る舞う話などが多く出てきたが、駄菓子屋や甘味屋のようなものだったのかと聞けば、ひどく曖昧に言葉を濁されるということばかりだった。
今、この住所の情報を知ると同時に思い出す祖母の姿は、いつも家の目の前の用水路の際で必ず髪をとかしていた姿。毎日特に誰に逢うわけでもないのに必ずそうしていたことを思い出す。ひょっとしたらそういった水関係の仕事に就いていた人だったのかもしれないなと、ふと思ったりする。
とにかく自分から見ればわずかに先代の父なのに、しかしあまりに謎に満ちている...ということを、この歳になって初めて知った。調べてみたい。解き明かしてみたい。そんな思いが強くなる。
そうそう、父の実母である三浦幸子という人。なんとこの人は広島県呉市の出身であることも分かった。今まで考えてもみなかった自分と広島の関係性。呉は軍港の街という知識から、いつか一度は行ってみたいと思っていたところだが、これでまた広島に行く理由が一つ増えた。これも是非行ってみたい。
ということで、一枚の古い戸籍を読んで、勝手に舞い上がってましたというお話しでした。
そういえば父が亡くなる前に、自分の半生記のようなものを書いていると言ってたっけな...あの原稿、書き上げたんだろうか...いや、途中でもいい、読みたい。今度、父の最期を看取ってくれたもう一人の母に聞いてみよう。